大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和40年(行ス)6号 決定

抗告人厚生大臣

神田博

右指定代理人

青木義人

ほか五名

相手方

安田健康保険組合

右代表者理事長

安田彦四郎

相手方

保土ケ谷化学健康保険組合

右代表者理事長

蟹江茂男

相手方

全国食糧健康保険組合

右代表者理事長

梶原茂嘉

相手方

三井健康保険組合

右代表者理事長

御手洗修

相手方ら四名代理人弁護士

松本栄一

前田弘

島内龍起

主文

原決定を取り消す。

相手方らの本件申立を却下する。

申立費用は第一、二審とも相手方らの負担とする。

理由

当事者の主張

第一、抗告人は主文同旨の決定を求め、相手方らは抗告棄却の決定を求めた。

当事者双方の主張および疎明は、次のとおり付加するほか、原決定記載の当事者の陳述および証拠関係と同一であるからこれを引用する。

第二、抗告人の新たな主張の要旨

一、社会保健診療報酬支払基金千葉県支部の経験三年の職員につき、新旧告示による点数切替作業の所要時間について調査した結果によると、相手方四組合に対する一年分の請求件数は、同基金右支部においてほぼ一日二時間の超過勤務および若干の臨時雇用者を採用すれば、一・七日ないし八・三日、平均五日弱で処理できるから、仮りに新告示が取り消されたとしても、過誤調整手続により過払金の返還に数年もかかることはない。

二、本件告示の執行停止がなされると、後日医療機関が不足分について過誤調整手続により支払を受ける場合相手方の協力が得られない限り、新たに診療録に基づき再度請求書を作成しなければならないが、その労力は多大であつて不可能に近い。また被扶養者から受けるべき患者負担額の不足分については、もはや支払を受けることは事実上不可能となる。

三、本件告示に関する諮問は昭和三九年一二月二二日になされ、中央医療協議会はただちに審議に入り、昭和四〇年一月九日まで六回(八日)にわたりじゆうぶん時間をかけて実質的に内容を討議したが、医療者側と支払者側との意見が一致せず、審議を続けても答申を出し得る見込が全くなくなつたので、やむなく答申を得ないまま本件告示をしたのである。

四、本件告示によつて生じた医療行政上の混乱については、政府が事態の収拾に乗り出し、当面の混乱は一応収まり後は国会の審議等に委ねられることとなつた。ところで、本件告示の効力の停止は政府の努力の効果を一挙に失わせ、一面医療者側の反発を招き、事態は紛糾し解決はますます困難となり、医療保健行政全般の機能をまひさせるおそれがある。そればかりでなく、本件告示の効力の停止により、新旧二様の告示が適用されることは、公平の原則に反し、また、医療費の算定に余分の労務を必要とするため、報酬支払の遅延を生じ、過誤を誘発するおそれがある。したがつて、本件執行停止は公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるから許されない。

第三、相手方の新たな主張の要旨

一、抗告人主張の点数切替作業の所要時間の推定はなんら根拠がない。なお、抗告人は支払基金の過誤調整作業の対象を相手方四組合に限局する。しかし、行政事件訴訟法第三二条の規定により、告示取消の効力は第三者たるすべての健康保健組合におよぶのであるから、過誤問題調整の問題は相手方以外の健康保険組合に関しても生ずべき筋合のものである。

二、被扶養者が医療機関に過払をしたときは支払基金の過誤調整は行なわれない。そして患者は医療機関に対して弱者の立場にあり、そのうえ、過払金額を算出する資料も能力もないのであるから、過払金の返還を受けることは不可能である。

三、中央医療協議会においては一二月二八日まで支払者側と医療者側とで意見が対立して実質的な審議が行われず、議事進行方法の討議や懇談に費されていた。一月八日審議が再開されたがただちに懇談会に切り換えられ、翌九日公益委員がその提案に基づく九・五パーセント引上の具体的配分案を審議するよう要請した。支払者側委員は、その代表する各支払団体の意見を聴取する必要があるから、同月一二日午後まで審議を延期するよう同協議会長に申し入れた。しかし会長はこれを拒否し公益委員の報告書を作成して抗告人に提出し、抗告人はこの間の事情を知りながら本件の告示をしたものである。したがつて、諮問については実質的な審議はなされず、その時間もなかつたのであつて、答申のできる見込がなかつたとはいえなかつたのである。

四、本件告示の効力停止によつて生ずる混乱は、すべて自己の非を改めようとしない抗告人の責任であり、また、費用の二本建によつて生ずる不公平は抗告人がこれを是正する義務を負うものである。

第四、新たな疎明<省略>

当裁判所の判断

第一、抗告人が健康保険法第四三条の九第二項の規定に基づき昭和四〇年一月九日厚生省告示第一〇号をもつて「健康保険法の規定による療養に要する費用の額の算定方法」(昭和三三年六月三〇日厚生省告示第一七七号)、同第一一号をもつて「看護給食及び寝具設備の基準」(昭和三三年六月三〇日厚生省告示第一七八号)をそれぞれ一部改正し、療養費を平均九・五パーセント引き上げた。

相手方組合は同法の保険者であるため、新告示の定める額によつて、医療機関等に費用を支払わなければならないこととなつた。

以上の事実は、当事者間に争いがない。

相手方組合は右告示によつて療養費を改正した処分は不適法であるとしてその取消を求める行政訴訟事件を提起するとともに、右処分の効力の停止を求める本件申立をした。

第二、そこで、まず行政事件訴訟法第二五条にいう回復の困難な損害を避けるため、告示の執行を停止しなければならないような緊急の必要があるかどうかを考える。

一、相手方は緊急の必要がある理由として、「相手方が新告示によつて費用を支払うと、後日右訴訟事件の判決によつて本件告示が取り消された場合に、旧告示との差額が過払となり、その返還を受けることとなる。ところで、社会保険診療報酬支払基金の過誤調整の手続によれば、現在その手続のなされている総請求件数の一〇〇〇分の一程度の約二万件の過誤調整について約五か月を必要としている。現在相手方組合に関する請求件数は一か月九五、〇〇〇件余であるから、右訴訟の判決確定までには数年を必要とし、その間の相手方組合に関する請求件数は多大にのぼり、その全部について過誤調整が行われることとなるから、その調整が完了するまでには数年ないし数十年を必要とすることとなる。また、箇々の医療機関等に対し訴訟を提起するとすれば、その数が多いため回収のできない高額の出費をしなければならないこととなる。いづれにしても、過払の返還は非常に困難であるか、または事実上不能である。」

と主張する。

右支払基金の過誤調整の手続は通常の支払に生ずる過誤を是正するために設けられたものであることはいうまでもない。しかし、本件告示が取り消され旧告示との差額が過払となつた場合にも、この手続を利用することができるものと思われる。

相手方の前記主張に添う甲第一六号証および原審証人伊集院俊寛の供述は後記の資料に照らし採用し難く、他に右主張を認めるべき資料はない。

甲第五号証の一、二、三によれば、右支払基金が全国で昭和三九年五月中に取り扱つた請求件数が二、〇〇〇万件余、支払金額が三八〇億円余であることが認められ、甲第六号証によれば、同年同月相手方組合に関する請求件数が九四、八九四件、金額が一億三、七〇〇万円余であることが認められる。右事実によれば相手方組合に関する請求件数および支払金額は全国総件数のうち二〇〇分の一に達していないわけである。したがつて、相手方組合に関する一か月分の請求を処理するには右支払基金としては一か月のうちの二〇〇分の一の日時でたり、一年分の請求を処理するにはその一二倍である一か月の二〇〇分の一二の日時、すなわち、約二日(一か月の就業日数を二六日とすれば、すなわち一・五六日である)で処理できる計算になる。仮りに本件告示が取り消されたときは、さきに提出された報酬請求書に基づき旧告示による金額を算出し、既に支払ずみの金額との差額を算出すればよいわけである。支払基金は請求を審査するに当つては、常に告示の点数表と対照してこれを行つているのであるから、旧告示による点数の算出も同告示の点数表と対照して行えばよいことであつて、新旧告示の点数表に差異があるため作業の当初においては点数表に不慣れのため若干の遅滞はあるとしても、この点数の計算が通常の点数の審査に比して、さ程の時間を必要とするほど複雑困難であるとも思われない。したがつて、新告示の取消によつて行われる過払の調整の手続に必要な日数は右二日より幾分多くを要するとしても、それほど大きな差はないものと推測される。これを一日二時間の時間外勤務によつて処理するとすれば、かりに一日実動約八時間勤務としてその事務量については四日の時間外勤務、すなわち、四倍の日数を要するから、二日の事務量については四倍の八日を必要とする計算となる。本件の紛争については、今後政府機関の努力と支払側および診療側の協調によつて、政治的に速やかに解決されることを希望するものであるが、かりに右行政訴訟事件の判決があるまでに数年かかるものとしても、右の計算によれば、八日の数倍より幾分多くの日時を要するに過ぎないこととなり、もし全員が二時間程度の時間外勤務を適宜することにより、早ければ一か月おそくとも数か月内にその処理を完了できる計算になる。

もちろん右は一応の推測による計算に過ぎない。また全業務要員が毎日二時間の時間外勤務をすることを期待することも困難であろう。しかしそのたりない部分は、臨時雇用者を採用するなどしてこれに代えることもできるから、鋭意努力すれば、右期間が著しく延びるとは思われない。

また、乙第一七号証によれば、昭和四〇年四月二〇日現在保険者申出の過誤調整未処理の状況について過誤取扱率の多い北海道ほか六支部において調査したところ、未処理件数一一万二二一七件のうち同年一月までの受付分は一、六三六件(一月中受付分八五、四九六件の二パーセント)、二月中受付分は一四、六〇二件(二月中受付分八五、四一八件の一七・一パーセント)であり、その余は三月からの受付分であつて、八〇パーセント前後の分が翌月までに調整されていることが一応認められる。したがつて、一か月で処理されていない分は、種々な問題があつて延引されているのであつて、右支払基金の処理能力の不足のために未済となつているのではないと思われる。

また、乙第二〇号証によれば、昭和四〇年四月二七、二八日右支払基金千葉県支部において経験三年の職員により診療報酬請求明細書につき新旧告示による点数切替による過誤調整手続の所要時間を調査したところ、職員一人一日(実働三九〇分)の処理が、点数切替作業について甲表および歯科は一五〇枚、乙表および調剤は一、五〇〇枚、支払額および請求額計算は七〇〇枚であること、乙第一八号証の一、二、三によれば相手方四組合に対する昭和四〇年二月の請求事件が甲表一一、七九六件、乙表六五、七二〇件、歯科一四、七二三件、調剤六八五件であること、これを一二倍した件数を一年分の件数と推定し、前記処理能力でこれを全部過誤調整した場合四、二四六人が一日作業すべきこととなること、昭和四〇年度の右業務担当職員の総計が三、〇四五人であること、所要人員数が業務職員数より少ない支部においては所要人員数の一〇割、多い支部においては所要人員数の八割に各相当する業務を職員の一日二時間の超過勤務により処理し、残余の業務を臨時雇用者で処理することとし、その能力を職員の八割と見込むと、職員の超過勤務日数は各支部により異るが最短一・七日最長八・三日を要すること、臨時雇用者には九四六人を一日必要とし、超過勤務日数と同一の期間臨時雇用者を使用するとすれば、各支部により異るが最少二人最大二五人をもつてたりることが一応認められる。

そして、行政庁は判決に拘束されるから、新告示が取り消されたときは、これによつて生じた相手方組合の過払について右支払基金に対し過誤調整の手続により敏速に返還させるよう適宜の行政措置をとるであろうことは、当然期待し得るところである。したがつて、支払基金が職員の時間外勤務または臨時雇用者の採用によつて敏速に過払の調整をするものと期待される。

そうだとすれば、仮りに前記行政訴訟事件において今後数年の後に本件告示を取り消す判決があつたとしても、相手方の過払金は一か月ないし数か月のうちに返還されると一応認めるのが相当である。

二、相手方は「告示が月の途中の日までの分について取り消されたときは請求書に具体的な日時が記載されていないため医療機関等の全面的な協力がない限り過払を明確になし得ないから過払金の返還は不可能となる。」と主張する。しかし、その月が昭和四〇年一月であろうとそのほかの月であろうとその月の診療のうちの一部分について生ずることであつて、その件数は前記の一箇月九五、〇〇〇件余のうちの一部分にとどまり、さして大きな数ではない。また、医師等の良識に訴えれば、医療機関等の協力が期待できるとみるのが相当である。したがつて、この場合相手方の主張するほどの困難はなく、過払額が明確にできるものと思われる。

三、相手方は一被扶養者が医療機関等に直接支払つた費用については、本件告示が取り消された場合過払となるが、患者は医療者に対し弱者の立場にあり、また過払となつている診療内容を知る能力もないから、過払の返還を請求することは不可能となる。」と主張する。しかし、この場合には医療者もある程度良識をもつて処理するであろうことが考えられるし、仮りに、被扶養者が過払の返還を受けられなくなり、またはそれが著るしく困難になるとしても、このため相手方組合に直接損害が生ずるわけではないから、相手方組合から本件執行停止を求める必要がありとする理由とならない。

四、相手方は「本件告示が取り消されれば、相手方四組合のみならず他の健康保健組合もその判決の効力を受けて過払となり、すべての組合について過誤調整の問題が生ずる。」

と主張する。

思うに、本件告示が抽象的法規定立の性質を有しながら抗告訴訟の対象となり得ると解するのは、本件告示が直接相手方に義務ないし法律上の不利益を生じさせるから、その限度において救済をはかろうとするためであるが、他面、相手方利害と関係のない第三者に対する処分の効力に変動を生じさせる必要はない。したがつて、相手方は右行政訴訟事件において相手方に対する関係で本件告示処分の取消を求めることができるが、相手方以外の者に対する関係で処分の取消を求めることは許されず、ために、かりに取消の判決があつたとしても、相手方に対する関係で本件告示処分が取り消されるにとどまり、相手方以外の者に対する関係で処分が取り消されることは考えられない。

行政事件訴訟法第三二条第一項の趣旨は、相手方に対する関係で行政処分が取り消されたという効果を第三者が争い得なくなるということである。言いかえれば、相手方は何人に対しても自己に対する行政処分が取り消されてその拘束を受けなくなつたことを主張できるというにとどまり第三者も自己に対する行政処分が取り消されてその拘束を受けなくなるというように拡張することを定めたものとは解されない。そうだとすれば、右行政訴訟事件の取消判決は、相手方を除く他の健康保険組合に対する本件告示の効力を左右することはないとみるのほかはない。

したがつて、右行政訴訟事件の処分取消の判決があつたとしても、相手方以外の健康保険組合が本件告示によつて支払つた費用については影響するところがなく、過払ということは生じない。右主張は、この場合過払の問題が生ずることを前提とするものであつて採用することができない。

五、以上のとおりであるから、将来もし本件告示の取消の判決があつたときは、本件告示の執行によりかなりの繁雑な問題が生じるであろうことは否定できないが、行政事件訴訟法第二五条第二項にいう回復困難な損害を避けるため告示の効力を停止しなければならないほど、緊急の必要があるとの点について疎明が足りない。

第三、したがつて、同項にいう本件告示の取消を求める本案訴訟が理由がないと見えるかどうかを判断するまでもなく、本件申立は採用しがたく、これを認容した原決定は取り消しを免れない。

よつて、本件抗告は理由があるので、原決定を取り消し、本件申立を却下し、申立費用は第一、二審とも相手方らの負担とする。(千種達夫 渡辺一雄 岡田辰雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例